オーダー頂いたiPhone7Plusのケース。
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久しぶりに作れて楽しかった。
楽しい時間をありがとう(*´◡`*)
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#手作り #handmade #iphonecase #case #iphone7plus #iphone7plusケース
72年前の3月10日。
東京はB29による大規模な空襲にあいました。
そして自分の母はその時、空襲の中心部だった、現在の墨田区両国で被災したのです。母の空襲体験はこれまで聞くことがありませんでした。
聞いても話してくれることはなかったのです。しかし数年前、叔母の葬儀の時に住職と会話しているときにふとその話になり、初めて聞くことが出来たのです。
聞いたのはそのときだけ。
それから2度と自ら話すことはありません。3月9日の未明、母は父(母のです 自分から見れば祖父)に突然起こされ、必要最小限の荷物だけをまとめて幼い弟二人と妹を連れて逃げるように言われたそうです。
その時はすでに表は焼夷弾の炎に包まれていました。父は銀座の用品店に勤めており、普段はとてもおしゃれな人だったそうですが、その時は荒縄をたすきがけにかけて、上着も縄で縛り壮絶な姿をしていたそうです。
父は仏壇を家の前の電信柱にくくりつけ、子どもたちと妻を大八車に乗せて避難を始めました。当時の母の家は旧両国国技館の裏手にあり、何かあったときは両国駅に避難するように父から言い含められていたそうです。
両国駅周辺は空襲が増えるにつれ、「建物疎開」でほとんどの建物が壊されて撤去されており、空き地になっていたそうです。空き地になっていれば燃えるものはない。
だから空襲にあったときは両国駅前に避難することになっていたそうです。
旧両国国技館は両国2丁目の回向院の旧境内にあり、そこから両国駅までは現在の地図を見ると約500メートル。
火の海の中を母の一家は両国駅を目指しました。当時の木造家屋は焼夷弾により燃え上がり、さらに強風により炎が舞い上がる地獄だったそうです。
その中をとても駅まで逃げることは出来ないと思った母は父に「近くの学校に逃げ込もう」と提案したそうです。
学校は鉄筋で出来ており、燃えることはないと思ったそうですが、父に即座に却下され、何が何でも両国駅まで逃げ切ると言われたそうです。
火の海の中をどこをどう通ったのか、なんとか両国駅まで逃げ切ることが出来たそうです。
そこは炎も襲ってこない安全地帯になっていました。そして母は母を含めた5人の兄弟、両親と奇跡的に一家そろって助かったそうです。
母は逃げる途中に学校へ避難することを主張したのですが、学校へ避難した人たちは燃える炎に鉄筋の建物が包まれ、中で蒸し焼きになり亡くなったそうです。
空襲からあけた朝、家に戻ってみると当然全て焼け落ちていましたが、父が家の前の電信柱にくくりつけた仏壇はしっかりと残っていたそうです。
なんというかその時は父のあまりの要領の良さに感心したそうです。家の前に置いておいたら誰かに踏みつぶされてしまうし、もって逃げることは出来ない。しかし電信柱にくくりつけておいたら誰も気にとめないと判断したそうです。
そのために荒縄を肩からかけて避難の準備をしていたのです。家を焼かれた母の一家は、空襲にあって家を無くした罹災証明書をもらうために、区役所が臨時で作った窓口(当然屋外です)に母とその弟を並ばせました。
並んでいる人たちは皆一様にススで真っ黒になり、疲れ果てた顔をしていたそうです。
そのうち前に並んでいた人たちがしきりに母の方を見てなにか話しては前を向き、振り返っては何かを話していたそうです。
何かと思っていたそうですが、母もふと後ろを振り返ると、すぐ後ろに赤ん坊を背負った女性が並んでいたのですが、その背負われた赤ん坊はグッタリとしており、息をしている様子は無かったそうです。罹災証明をもらった一家はとりあえず、親戚がいる千住に向かって移動を始めました。
歩いていく途中は炭化した焼死体だらけ。その中を歩いていき、隅田川に架かる橋(蔵前橋か駒形橋)にたどりつくと生き残った人たちが連絡先を書いた紙がたくさん貼り付けられていたそうです。
そして浅草に入ったところで、現在の浅草ビューホテルの前に当たるところに(当時はなだらかな丘になっていたそうです)数え切れないほどの黒こげの焼死体が並べられていました。
その光景は今でも目に焼き付いていると話していました。
そしてその光景を見たために今でも浅草には行きたくないとも話していました。その後は母の一家は千住の親戚の家からさらに新潟の親戚を頼って疎開し、そこで終戦を迎えたのです。
母は毎年夏にあちらこちらで行われる花火大会が嫌いです。
見物に行こうともしないし、ましてや窓から見ようともしません。
それは打ち上げ花火が落ちてくる様子が、焼夷弾が落ちてくる様子とそっくりだからだと話しました。
爆撃機から落ちてくる焼夷弾がたくさんに割れて、火を噴きながら落ちてくるその様子が花火にそっくりだというのです。
その様子は一瞬美しいとも思える光景だと言っていました。これが72年前の母の体験です。
母は子どもの頃の写真が1枚しかありません。
それは小学校に入学したときのクラス全員で写した記念写真です。
その写真もほんの数年前、当時の小学校のクラス会が開かれ、田舎に疎開していた同級生が複写して配ってくれたものです。
一度その写真を見せてもらいましたが、その写真に写っている約50人中、半分の子どもたちは東京大空襲で死んだか行方不明になったそうです。どんなに苦しいことになっても母はこういいます。
「生きていれば何とかなるものよ」。
72年前の3月10日。
東京はB29による大規模な空襲にあいました。
そして自分の母はその時、空襲の中心部だった、現在の墨田区両国で被災したのです。母の空襲体験はこれまで聞くことがありませんでした。
聞いても話してくれることはなかったのです。しかし数年前、叔母の葬儀の時に住職と会話しているときにふとその話になり、初めて聞くことが出来たのです。
聞いたのはそのときだけ。
それから2度と自ら話すことはありません。3月9日の未明、母は父(母のです 自分から見れば祖父)に突然起こされ、必要最小限の荷物だけをまとめて幼い弟二人と妹を連れて逃げるように言われたそうです。
その時はすでに表は焼夷弾の炎に包まれていました。父は銀座の用品店に勤めており、普段はとてもおしゃれな人だったそうですが、その時は荒縄をたすきがけにかけて、上着も縄で縛り壮絶な姿をしていたそうです。
父は仏壇を家の前の電信柱にくくりつけ、子どもたちと妻を大八車に乗せて避難を始めました。当時の母の家は旧両国国技館の裏手にあり、何かあったときは両国駅に避難するように父から言い含められていたそうです。
両国駅周辺は空襲が増えるにつれ、「建物疎開」でほとんどの建物が壊されて撤去されており、空き地になっていたそうです。空き地になっていれば燃えるものはない。
だから空襲にあったときは両国駅前に避難することになっていたそうです。
旧両国国技館は両国2丁目の回向院の旧境内にあり、そこから両国駅までは現在の地図を見ると約500メートル。
火の海の中を母の一家は両国駅を目指しました。当時の木造家屋は焼夷弾により燃え上がり、さらに強風により炎が舞い上がる地獄だったそうです。
その中をとても駅まで逃げることは出来ないと思った母は父に「近くの学校に逃げ込もう」と提案したそうです。
学校は鉄筋で出来ており、燃えることはないと思ったそうですが、父に即座に却下され、何が何でも両国駅まで逃げ切ると言われたそうです。
火の海の中をどこをどう通ったのか、なんとか両国駅まで逃げ切ることが出来たそうです。
そこは炎も襲ってこない安全地帯になっていました。そして母は母を含めた5人の兄弟、両親と奇跡的に一家そろって助かったそうです。
母は逃げる途中に学校へ避難することを主張したのですが、学校へ避難した人たちは燃える炎に鉄筋の建物が包まれ、中で蒸し焼きになり亡くなったそうです。
空襲からあけた朝、家に戻ってみると当然全て焼け落ちていましたが、父が家の前の電信柱にくくりつけた仏壇はしっかりと残っていたそうです。
なんというかその時は父のあまりの要領の良さに感心したそうです。家の前に置いておいたら誰かに踏みつぶされてしまうし、もって逃げることは出来ない。しかし電信柱にくくりつけておいたら誰も気にとめないと判断したそうです。
そのために荒縄を肩からかけて避難の準備をしていたのです。家を焼かれた母の一家は、空襲にあって家を無くした罹災証明書をもらうために、区役所が臨時で作った窓口(当然屋外です)に母とその弟を並ばせました。
並んでいる人たちは皆一様にススで真っ黒になり、疲れ果てた顔をしていたそうです。
そのうち前に並んでいた人たちがしきりに母の方を見てなにか話しては前を向き、振り返っては何かを話していたそうです。
何かと思っていたそうですが、母もふと後ろを振り返ると、すぐ後ろに赤ん坊を背負った女性が並んでいたのですが、その背負われた赤ん坊はグッタリとしており、息をしている様子は無かったそうです。罹災証明をもらった一家はとりあえず、親戚がいる千住に向かって移動を始めました。
歩いていく途中は炭化した焼死体だらけ。その中を歩いていき、隅田川に架かる橋(蔵前橋か駒形橋)にたどりつくと生き残った人たちが連絡先を書いた紙がたくさん貼り付けられていたそうです。
そして浅草に入ったところで、現在の浅草ビューホテルの前に当たるところに(当時はなだらかな丘になっていたそうです)数え切れないほどの黒こげの焼死体が並べられていました。
その光景は今でも目に焼き付いていると話していました。
そしてその光景を見たために今でも浅草には行きたくないとも話していました。その後は母の一家は千住の親戚の家からさらに新潟の親戚を頼って疎開し、そこで終戦を迎えたのです。
母は毎年夏にあちらこちらで行われる花火大会が嫌いです。
見物に行こうともしないし、ましてや窓から見ようともしません。
それは打ち上げ花火が落ちてくる様子が、焼夷弾が落ちてくる様子とそっくりだからだと話しました。
爆撃機から落ちてくる焼夷弾がたくさんに割れて、火を噴きながら落ちてくるその様子が花火にそっくりだというのです。
その様子は一瞬美しいとも思える光景だと言っていました。これが72年前の母の体験です。
母は子どもの頃の写真が1枚しかありません。
それは小学校に入学したときのクラス全員で写した記念写真です。
その写真もほんの数年前、当時の小学校のクラス会が開かれ、田舎に疎開していた同級生が複写して配ってくれたものです。
一度その写真を見せてもらいましたが、その写真に写っている約50人中、半分の子どもたちは東京大空襲で死んだか行方不明になったそうです。どんなに苦しいことになっても母はこういいます。
「生きていれば何とかなるものよ」。
俺「前歯が欠けてしまって……」
歯医者「どこかにぶつけたんですか?」
俺「あずきバーを食べてて……」
歯医者「それは仕方ないですね。夏場は多いんですよ、あずきバーに負ける人」
_人人人人人人人人人人人人_ > あずきバーに負ける人 <  ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^
Twitter / kogamine: 俺「前歯が欠けてしまって……」 歯医者「どこかにぶつけたん … (via otsune)
(出典: twitter.com)
「愛しているけど許さない」遠野なぎこが絶望の果てに見いだした、実母との距離(1/2)|サイゾーウーマン (via otsune)
(出典: cyzowoman.com)
高校の同期に教えて貰った→
「知的であるかどうかは、五つの態度でわかる。
世の中を見渡すと、あらゆる属性、例えば学歴、職業、資格、言動、経済的状況などが「知的であるかどうか」のモノサシとして使われており、根拠があるものないもの含め、混沌としている。
だが、私がこの先生からお聞きした話はそういった話とは少し異なる。
彼は「人間の属性と、知的であるかどうかの関係はよくわかりませんが、少なくとも私が判断をするときは、五つの態度を見ています」
という。
エピソードを交え、様々な話をしていいただいたのだが、その5つをまとめると、次のようなものになった。
一つ目は、異なる意見に対する態度
知的な人は異なる意見を尊重するが、そうでない人は異なる意見を「自分への攻撃」とみなす
二つ目は、自分の知らないことに対する態度
知的な人は、わからないことがあることを喜び、怖れない。また、それについて学ぼうする。そうでない人はわからないことがあることを恥だと思う。その結果、それを隠し学ばない
三つ目は、人に物を教えるときの態度
知的な人は、教えるためには自分に「教える力」がなくてはいけない、と思っている。そうでない人は、教えるためには相手に「理解する力」がなくてはいけない、と思っている
四つ目は、知識に関する態度
知的な人は、損得抜きに知識を尊重する。そうでない人は、「何のために知識を得るのか」がはっきりしなければ知識を得ようとしない上、役に立たない知識を蔑視する
五つ目は、人を批判するときの態度
知的な人は、「相手の持っている知恵を高めるための批判」をする。そうでない人は、「相手の持っている知恵を貶めるための批判」をする。
知的である、というのは頭脳が明晰であるかどうか、という話ではなく、自分自身の弱さとどれだけ向き合えるか、という話であり、大変な忍耐と冷静さを必要とするものなのだ、と思う。」
132 :Trader@Live!:2009/09/12(土) 18:13:16 ID:D6/oAplw
»92
拾いものだが
298 :日出づる処の名無し:2009/09/10(木) 04:06:25 ID:dLRpnTnQ
麻生太郎が、壁に貼って、小さい頃から守り続けてる逆説の10か条
マザーテレサも影響うけたみたいだ
マイミクが書いておった。
●逆説の十ヶ条●
1 人は不合理で、わからず屋で、わがままな存在だ。
それでもなお、人を愛しなさい。
2 何か良いことをすれば、隠された利己的な動機があるはずだと人に責められるだろう。
それでもなお、良いことをしなさい。
3 成功すれば、うその友だちと本物の敵を得ることになる。
それでもなお、成功しなさい。
4 今日の善行は明日になれば忘れられてしまうだろう。
それでもなお、良いことをしなさい。
5 正直で率直なあり方はあなたを無防備にするだろう。
それでもなお、正直で率直なあなたでいなさい。
6 最大の考えをもった最も大きな男女は、 最小の心をもった最も小さな男女によって撃ち落されるかもしれない。
それでもなお、大きな考えをもちなさい。
7 人は弱者をひいきにはするが、勝者の後にしかついていない。
それでもなお、弱者のために戦いなさい。
8 何年もかけて築いたものが一夜にして崩れ去るかもしれない。
それでもなお、築きあげなさい。
9 人が本当に助けを必要としていても、実際に助けの手を差し伸べると攻撃されるかもしれない。
それでもなお、人を助けなさい。
10 世界のために最善を尽くしても、その見返りにひどい仕打ちを受けるかもしれない。
それでもなお、世界のために最善を尽くしなさい。
これが、麻生太郎の強さの秘訣だ
麻生太郎が小さい頃から守り続けてる「逆説の10か条」 | ライフハックちゃんねる弐式 (via itokonnyaku)